今回は青森県の三戸郡新郷村戸来(しんごうむらへらい)の都市伝説を紹介します。
それは「キリストの墓伝説」です。
イエス・キリストの最後と聞くと、十字架に磔にされている姿が浮かんできますが、その後キリストがどうなったのかを知っていますか?
埋葬された後に復活して信者の前に現れたと聖書には書いてあります。
その場所がエルサレムの「聖墳墓教会」もしくは「園の墓(そののはか)」では無いかというのが一般的な説です。
どこをどう見ても、何を調べても「キリストは青森に埋葬された。」なんて事は聖書には書いてありません。
しかし、実際に青森県三戸郡新郷村戸来にはキリストの墓と言われている「十来塚」が存在し、毎年6月には慰霊祭も行われている。
では何故、青森県にキリストの墓伝説なるものが存在しているのか見てみよう。
青森県に存在するキリストの墓とは?
実際に青森県三戸郡新郷村戸来にはキリストの墓と言われている「十来塚」が存在し、毎年6月には慰霊祭も行われている。
そもそも、なぜ青森なのか?
このお墓がキリストのお墓とされている由来を見てみよう。
時代は2世紀(西暦101年~)の初め頃まで遡る。
この頃の日本は石器から鉄器に移り変わる時代で、世界でも最高峰の文明を持っていた。なんとこの文明に憧れを抱いたキリストは、日本に渡来したという。
キリストは21歳の時に橋立の港(現代では石川県加賀市の港)に上陸したという。
そして12年間、キリストは日本で修行をし、34歳の時にユダヤへと帰港。
ではこの間、聖書ではキリストは何をしていた事になっているかが、非常に気になるところ…。
実はこの間のキリストの行動は何も書かれていない。
21歳の時に忽然と姿を消したかと思うと、33歳の時にいきなり現れ、天国と神の存在について説いたとされており、その間にキリストが何処にいたのか、なぜ忽然と姿を消してしまったのかに関しては何も書かれていない。
聖書には書いていなかったが、その空白の11年間、キリストが何をしていたのかを記した文献が日本に存在している。
それが「キリストの遺言書」である。
竹内巨麿(たけうちきよまろ/たけのうちきよまろ)が、1928年(昭和3年)に公開した「竹内文献(たけのうちぶんけん)」に記載されている。
この公開された文章の一つに「イスキリス・クリスマス(イエス・キリストではないかとされている)の遺言」という文書が発見された。
この文章によると、ゴルゴダの丘で十字架にて磔の刑によって処刑されたのはキリストの弟であるイスキリであり、本物のキリストは日本に逃れてその生涯を終えたというもの。
昭和10年に竹内巨麿がこの文章を基に、青森県の戸来村でキリストの墓である「十来塚」発見したとされる。
また、この竹内文献によると、キリストは名前を十来太郎大天空と改めて戸来村に住み着き、日本人のミユ子という女性と結婚し、ミユ子との間に3人の子供まで育て、最後は106歳の大往生で天寿を全うしたというから驚きだ。
仮にこの話が本当であれば、もっと日本にキリスト教が広まっていてもおかしくはないと思うが、この文献によるとキリストは布教はしなかった模様。
しかし、日本各地を旅してまわり、日本の言葉や社会、風習を学びながら、困っている人への救済に力を入れていたとの事。
天狗の正体はキリストだった!?
そしてもうひとつ面白いのが、日本の妖怪で有名な「天狗」は、そもそも遭難した外国人ではないかという説があるなかで、キリストもまた、鼻が高く、日本人からしてみると見慣れない顔立ち、更にシベリア経由で日本に渡ってきたという記録から、外国特有のかなり厚着な服装をしていたと思われるが、その風貌からキリストが天狗として敬われていたという話もある。
竹内文献の信憑性
いくら昔の文献だからと言って全て信じるわけにはいかない。
残念ながら多くの研究者の間で、この竹内文書は偽物だという説が強く、モーセの十戒は表の十戒で実は真の十戒が書かれた石碑があるという話や、仏教の始祖である釈迦までもが日本に来日して天皇に仕えたといった事実ならとんでもない話までが書かれている。
なので、このキリストの墓も偽物ではないかとされているが、偽物と断定出来ないような不思議な風習や由来がある。
当時、戸来村(へらいむら)と呼ばれていたはこの地名はヘブライが訛って戸来(へらい)村とされていたり、赤ちゃんを初めて外に出すときには、墨で額に十字架を書く風習や、ユダヤ教、ユダヤ民族を象徴する六芒星(ヘキサグラム)を代々家紋としている家がある事などから、作り話と一蹴り出来ないのがまた面白い。
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